top of page













八代 深川 栄左衛門 (1832~1889)
天保3年(1832)、肥前有田に生まれる。江戸より代々続く窯の8代目。明治元年(1868)、それまで藩によって独占されていた陶磁器の海外輸出を民間の窯が独自に拡大して行えるように働きかけ成功する。明治3年(1870)には磁器製碍子の開発にも成功した。明治8年(1875)に深海墨之助、辻勝蔵らと香蘭社を設立、翌年のフィラデルフィア万国博覧会で有田焼の地位を揺るぎないものとした。明治12年(1879)、深海らが脱退し精磁会社を設立したのを機に香蘭合名会社を設立。その後も精力的に国内外の博覧会に出品を続け、有田窯業の発展に尽くした。
七代 錦光山 宗兵衛 (1868~1927)
慶応4年(1868)京都に生まれる。江戸時代より続く京都東山粟田口の錦光山窯は、父である六代目の頃から陶器の海外輸出を始める。明治17年(1884)家督を継ぎ、貫入の入った乳白色の陶器に細密な絵付けを施す京風の薩摩焼(京薩摩)で海外から絶賛される。また、焼絵付け用水金の応用法開発や様々な釉薬の発明など、意匠改革にも積極的であった。明治21年(1888)バルセロナ万国博覧会金賞、明治33年(1900)パリ万国博覧会金賞など数々の賞を受賞。
錦光山の作品は住友春翠翁コレクションにも見受けられる。
薩摩焼 (SATSUMA)
慶応3年(1867)の第二回パリ万国博覧会で絶賛されて以降、鹿児島だけでなく日本の各地で乳白色の陶器に色絵、金彩を施した薩摩焼を模したものが造られるようになった。これらはSATSUMAと総称され、海外で巻き起こったジャポニズム旋風の中心に位置する。本家薩摩の沈壽官窯を初めとして、京都の錦光山窯、大阪の藪明山窯らが知られている。他にも神戸や九谷、横浜などでもSATSUMAは焼かれていたが、どの銘がどの地域で製作されたものか、特定は困難な場合が多い。






bottom of page