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林屋次三郎 (1872~?)

 明治5年(1872)金澤に生まれる。明治30年(1897)陶磁器の製造販売を始める。九谷焼の意匠開発を進め、写真焼付陶器を発明し専売特許を得るなど特に絵付けの改良に努めた。明治36年(1903)の第五回内国勧業博覧会では名誉二等賞、翌37年(1904)のセントルイス万国博覧会では工芸部にて名誉大金牌、美術部にて名誉金牌を受賞。森村組が日本陶器合名会社を設立するのと同時に製造を中止した硬質陶器の製法を研究発展させ、日本硬質陶器株式会社設立に尽力した。

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五代 西浦圓治 (1856~1914)

 安政3年(1856)美濃に生まれる。明治21年(1888)、西浦圓治を襲名し積極的に美濃の陶磁器を海外に向けて輸出していた。初期は染付や上絵を中心に製作、その後吹き暈しの下絵付け作品で一世を風靡した。明治44年(1911)に閉窯。国内に現存する作品はほぼなく、「幻の西浦焼」と言われる。

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竹内忠兵衛 (?~?)

 愛知県名古屋に工房を構えた。七宝会社の中心的工人であり、七宝から磁胎七宝、上絵付まで様々な作品を制作していた。国内外の博覧会には名古屋七宝会社名義、横浜の田代商店名義、また自己名義で出品し数々の賞を受賞した。 彼が考案した「陶磁器ニ石目ヲ顕ハス法」(磁器の表面を石目調にする技法)は明治22年(1889)特許を取得した。

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​加藤三平 (?~?)

 瀬戸で輸出向け磁器製造を行っていた。東京の瓢池園や横濱の井村彦次郎に生地を提供していたことからも、磁器づくりにおいて確かな腕を持っていた事が分かる。しかし、不思議なことに、大日本窯業協會により明治25年(1892)9月以降毎月刊行されていた『大日本窯業協會雑誌』に彼の名前は確認できない。

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川本枡吉

 瀬戸で江戸時代末期より奇陶軒と号し磁器製造を行っていた。初代は瀬戸において輸出向けの作品を作った最初といわれており、国内外の博覧会で高い評価を得る。染付作品のあまりにも巧妙な出来に、これは磁器製ではないとの疑いがかかり粉砕して証明したという伝説が伝わる。
 二代目は明治10年(1877)初代枡吉の養子となり、明治19年(1886)枡吉を襲名、初代と同じく磁器の改良に熱心であったという。

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